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トークイベント『半分死んでいる』

ゲスト : 宮谷 研士 (美術愛好家, フリーライター)

進行 : 高橋 義明 (アーティスト, EFAG主宰)

藤村 本日は個展のトークイベントにお越し頂きましてありがとうございます。まず、この展示の開催のきっかけからお話いたします。私の好きな、高松次郎(1936-1998)というアーティストの方がいるのですが、彼の著書の中にこんな一節がありました。

 『—例えば、死をはらんでいるがゆえに愛されるオートバイのように、現在のさまざまな商品や建築物は、それ自体に必ずといってよいほど「反」機能的な要素が含まれ、愛好されていることは確かである(『不在への問い』より)』

 オートバイには便利な道具としての側面と、死をはらむ—例えば、事故には人生を大きく変えてしまう可能性もあって。便利さを得ると同時にリスクも追っているというか、この『死をはらんでいる』という一節が妙に頭に残っていました。私は大学を出た後、3年間デザイン会社に就職していたんですが、仕事中、高速道路を走っていたとき、急に「ハンドルを切ったら死ぬ」という感覚に襲われたことがありました。まっすぐ走っていながら、ハンドルを少し切るだけで「死ねる」というような不思議な感覚でした。半分死んでいて、半分なんとなく生きているような。この体験が、先ほどの高松次郎の一節と結びつき、今回の作品群を制作する意欲になりました。

 次に、今回の展示のタイトル『イデア』についてです。そもそもこれはなんなのかという話をしようと思います。イデアとは、古代のギリシャにプラトンという哲学者がいて、彼が唱えた哲学の概念になります。イデア論という考え方のようなものです。プラトンの愛に関する考え方の一説によると、例えば人が人を「思いやる」ことや「大事に思う」 「好き・嫌い」などといった、恋愛感情も含んだ家族や親友や身の回りの人に対して思う「何かしてあげたい」という感情は皆さんがそれぞれイメージできると思います。でも、私が思うその感情と、皆さんがそれぞれ大事な人に思う感情は100%同じものとは言えないと思うんですね。でも、私たちは確かに愛に対するイメージを持っていて、それを共有できているのはなぜなのか?ということを、このイデア論は説明しています。プラトンは、皆さんの共通の認識になっているイメージのことをイデアと呼んで、それは何なのか?どこから生まれるてくるのか?ということを考えていました。

 今回の個展と作品群にこのタイトルをつけたのは、私たちが普段生活していて目にする色々なもの—自分自身もそうですが、これらは自分が思っているものの形と、他の人が思っているものの形が違うように、本来はこういった不確定的な姿なのではないか?という問いそのものであり、車やオートバイのように不可逆的な選択をはらんでいて、かなり不安定で歪んだものなのではないかという考えによるものです。それでは、宮谷さんから今回の展示の感想をいただきたいと思います。

宮谷 よろしくお願いします。本日はお声がけいただきありがとうございます。私は美術の作品を見ることが好きなのですが、なぜかといえば、自分自身の感覚を拡張したいからです。これまで自分の思ってきたことと全く別の感覚に引きずり込まれてしまうような体験をしたくて、映画や音楽、こういった美術作品を見ています。

 藤村のこれまでの作品を見てみると、例えば、窓が歪んでいる作品 (”Conversion”『日常に依って』) は、これまで自分が窓に対して思ってきた感覚や、日常的に窓から外を見たときの感情といった自分の中の常識が、作品を前にすることによって、空間と齟齬を起こしているような状態になります。本来鏡には自分の姿が映るはずなのに、それが歪んでいて映らないとか、晴れているはずなのに、外に雨が降っている。空間と自分自身の感覚が齟齬を起こすと、それまで自分が持っていた感覚と違う自分が現れて、俯瞰しているような感覚になるんです。これまで自分がそれをどう感じていたか、どう見ていたか、どう思い込んでいたかということに対しての問いかけをさせられる。その俯瞰的な感覚というのは、先ほど説明のあったイデアに近いものがあります。自分たちの思っているものが真実ではなくて、別の世界にイデアという絶対的な価値観がある。彼の作品を前にしたときー言葉で説明することができない現象を見たときに、問いかけについて考えている新たな自分が生まれる。そういった俯瞰的な構図が生まれるのです。そこが彼の作品の面白さだと感じています。

 高速道路のエピソードや、『死をはらんでいる』性質については順を追って話していきたいと思っていますが、まず、作品それぞれの説明を本人からいただいてもいいでしょうか?新しい表現に踏み切ったきっかけとか、なぜ過去の作品のようなインスタレーションをメインにしなかったのか、など。

 

藤村 見ていただくと、なんとなく共通性を感じていただけるかなと思います。2つのものを1つにつなげるというアイデアで構成しています。先ほどの高速道路の話になるんですが、そのときは死ぬか生きるかという二択が頭にありました。この対極の性質をどちらをどうと切り離すことはできない。2つが1つであるという状況は色々なことに当てはまるのではと思います。ドアの作品(”Anyway the winds blows” 『いずれにしても風は吹く』)は、先細りの通路の先にドアが一枚だけで、開口が2つあります。つまり、入口が2つです。あのドアは、どちらに閉まるのか?2つの選択肢があって、どちらを選ぶか。その状態こそが「生きる」という状態なのではないかということを示そうと思いました。小さいことから、大きいことまで、様々な選択が常に私たちに迫っているということが、この作品の意味です。鉛筆の作品(”Idea” 『イデア』)に関していえば、道具には決められたベクトルがあって、使われ方はその構造によって、制限されているのではという考えがありました。あれを使ったとして、削っていくと二股の部分でそれ以上使えなくなります。物に、新しい寿命=使われ方が生じるということです。それは本来の「鉛筆とはこういうもの」という前提に対して、イデアを崩す形を与えるということです。

高橋 イデアというと、プラトンの洞窟の話があります。

『ー イデアは、目に見えないものとして存在していて、人間は洞窟の中で、洞窟の入り口を背にして、ずっと洞窟の壁を見ている。人間はそこで、背後にある物のまた背後から差す光によって、壁に映し出される物の影を本物と思って生きている。その洞窟の外にある世界がイデアの世界で、人間が見ることのない本当の世界である。』

 つまりイデアとは、目に見えているものだけではない。精神性のようなものにも思えます。今回の展示をみていくと、選んでいるモチーフは日用品で、元々の姿に馴染みがある。鉛筆が加工されているんだなというのがわかる状態だと思うんです。それはなぜですか?私が思うに、今回作品にしようと探ったことは、ものがものじゃなくなる瞬間とか、その概念のようなものではないように思います。実際、具体的な対という形のコンセプトも見えている。そのあたりの考えはどうでしょう。

 

藤村 形に具体性を残しているのはなぜかということでしょうか?

 

高橋 そうです。

藤村 これは私の過去作品のテーマに通づるところがありまして、ある程度自分にルールを設けています。そもそも、ものがものであるということがどういうことなのか。例えば、ビール瓶を思い浮かべたときに、「硬い」とか「ガラスでできている」とか、もしかしたら「冷たい」こともあるかもしれない。私は、物を構成するための要素=属性と呼んでいるんですが、属性をそのままに残して、形を変形させるというのが、矛盾や違和感を引き起こすことになると感じています。椅子は椅子のまま。椅子が椅子らしくありながら、新しい何かになっているという状態が奇妙な違和感になると考えているためです。その違和感は、見る人にものの本来の姿を問いかけると考えています。

宮谷 一般的なインスタレーション作品では、その作品に対する不安な感情だけが先行して、「難解な作品」という印象しか残さない危険性も多くはらんでいるように思います。それは、言語化の難しさや「これは何だろう?」という不安の感情によって、うまく自分の考えを構築できない・しづらいことによると思うんですね。 ところが、今回の作品群は、物(=モチーフ)のすがたが先行して見えてくる。「これは何なのか」が認識しやすく、共有がなされている状態があります。それが「椅子ってこういうものだっけ?」や「普通じゃないな」という面白さになる。道具によって提示されているわかりやすさ、あるいは没入のしやすさがあるのかなと思います。

高橋 この3人で以前作品について話したときに、サルトルの実存主義の話が出たと思うんですが、個人的にはイデアよりそっちの方が興味が湧きました。実存主義というのは、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)による『実存は本質に先立つ』という考え方です。 例えば、ペーパーナイフは、紙を切るという目的=本質があって、その目的があって存在している。存在する前に、目的がある状態ですね。紙を切るための道具として作られた存在である。ところが、人間というのは目的はなくて、存在がまず最初にあります。そこから自分の人生を送っていくから、生きる目的みたいなものをあとから見つけていく。当時の西洋の文化でいくと、神の存在がとても大きいことも影響していると思います。人間の本質=生きる目的みたいなものがすでに決まっていて、それに沿って生きていくわけです。今回の日用品のモチーフは、目的が先にあって存在しているもので、それに向き合っている姿勢が結構面白いなと。目的があって存在しているものを、その目的(用途)を引き剥がして、見せている感じ。

 

宮谷 サルトルは『人間だけが実存は本質に先立つ』と言っていて、この作品は、道具たちを人間化しているという見方もできるのではないかと思っています。道具として本来の姿を失っている=本質を引き剥がしているから、実存だけ。目的を見失わせることによって、実存だけになっている。そうすると、形式的にはとても不安にも映るわけですが、サルトルは『不安は自由の証明』というふうにも説明しています。目的がない状態だと、自分で自由に選択することになり、不安な状態に陥る。逆に言えば、不安な状態とは自由の証明である、ということです。

宮谷 不安感の排除ということに関しては、展示前から藤村とも話していたんですけど、今の社会自体が不安を排除する方向で色々なものを作ってきている。そうすると、生きるとはどういうことかという問いにもつながってくるのかなと思っていて。現代短歌作家の穂村弘さん(1962-)は『生きると生きのびるとは違う』というような話をしていらっしゃいます。まず「生きる」というのは、不安もあるが、自由もある状態。「生きのびる」というのは、大きくいうと生存に関わることです。お金を稼ぐ、食べる、寝る。それだけを抽出している状態です。そこに自分の選択性はなく、不安はなるべく排除したい。ただそうしてしまうと、「生きる」という感覚はなくなってしまうのではないか?という内容です。それが、「ただ存在していて、目的が後についてくる状態」の、この作品の実存の語り方に近い部分もあるなと思います。

藤村 その感覚は仕事をしていたときにすごく思ったんですね。働いて、お金を稼いで。生存という意味でいうと、すごくできていた感覚はありました。遊ぶお金とかも多少あって。でも仕事をやめたあと、だんだんと焦りがでてきて、自分でやらなきゃいけないことをやっていかないと、このままいけば金がなくなってご飯を食えなくなる。それってすごく不安なんですけど、逆に、持っている知識とか、ひとの繋がりとかを総動員してなんとか生きようとするというか。毎日緊張している感覚です。

宮谷 最初に出ていた高松次郎の『死をはらんでいる』というのと関連づけてみると、死というものをどのくらい生活や作品の中に含めるかというのも重要な解釈だと思います。穂村さんも、生きると生きのびるを別の二つの生き方として考えていたわけではなくて、それらは重なっている部分もあると仰っています。その中で、今はあまりにも生きのびる方に傾いていて、生きる充実感を感じづらくなっている。仮にどれだけ頑張っても、自分の中でハンドリングしきれないものが多すぎると、虚しい感覚になってしまう。

 別分野の例として冒険の話もさせていただきたいと思います。冒険家の方が挑戦していることは、普通の生活をしている人からすると「なぜそんなことを」と思われるようなことばかりだと思います。これについては、多くの冒険家の方が『死に直面すると生が輝くから』と説明していますが、それだけではなく、本多勝一さん(1932-)というジャーナリストの方が冒険の定義をより明確に『明らかに生命への危険をふくんでいること』『主体的に始められた行為であること』としています。この「主体的である」ことが極めて重要で、例えば、生命の危機を味わうために、国道に出て轢かれるまで待ったとしてもそれは冒険ではない。ある意味、自分で生命の選択はしているけれども、その死は車に委ねられている=自分でハンドリングできないーつまりこれは受動的な行為なのです。冒険であるためには自らが判断し、その行為に責任を負うことが必要で、生きることを自らが主体的に組み立てていくことが冒険の自由であり、その自由は常に死と隣り合わせで、死も内包されている。自分の生存=生きることを直接的かつ創造的につくりあげる自由こそが冒険だということです。

こう考えてみると、創作行為というのはまさに冒険で、作家は自分自身が主体的に選択をし、責任を負いながら、作品を作っている。さらに、作品が(機能性や常識の)生死をはらんでいる場合、その作品は冒険的であるといえます。冒険の本や映像を追体験しているときに感じる緊迫感といった魅力も兼ね備えているかもしれません。この展示では、いわゆる生命としての生と死の概念ではなく、機能性が死ぬことで目的が失われ、独自性が出て、作品としての新しい生が輝いている。あるいは、それを見る私たち人間にも同じことが言えて、ある社会システムの中、自分の感覚に批評なく生活していると、生きていると言えないのではないかという問いと似ているかもしれません。

高橋 時間も残りわずかなので、質問ある方いましたら、どうぞ。

—だいぶ工芸的な、専門的な作業をしている作品に見えています。そこの作業性についてどう考えられているのかなと。鉛筆はまだ使えるなというか。死んでない気もしますが、機能に関してそのあたりはどう考えられていますか?

藤村 作業性というとどういうことでしょう。

 

—機能を失うということに関していうのであれば、折ればいいかもしれない。でも、大変な作業を経ているのはなぜでしょう。

藤村 私はこういった作品が、「最初からこうあった」ように見せたいと思っています。それが手癖や手作業に出ているのかもしれないです。ものすごくシンプルに折るとか、使えなくすることが目的なのであれば仰られているようなやりようはいくらでもあると思いますが、物が物としてあってほしいというか。それが矛盾や違和感を引き起こす手法だと思うからです。

高橋 このトークのタイトルが『半分死んでいる』ですが、藤村の過去作品なども合わせて見ていると、対象を変形させているけど、殺すようなことはしていない。なので死をはらんでいるというよりかは、新たな生を授けたという見方もできるのかなと思いました。殺さず、生まれ変わらせる。その過程で変形しているのではという考え方もできるような気がします。

 

宮谷 死ぬと、ただ死んだ物体になってしまう。死をはらむということは、機能の死=常套句の否定という感覚の方が近いかもしれないですね。そのときに起こってくる感情を見つめ直すとき、そこに死があるというより、自分自身も新しく更新される。そういう考えでいくと、機能は死に切ってはいないけど、それまでの常識的な姿としては死んでいるというふうにも捉えられる。

藤村 東京でゴードン・マッタ=クラーク(1943-1978)の回顧展をやっていましたが、彼の作品であるスプラッター・シリーズでやっている行為は破壊なのか?という文章を見ました。それに対して彼は『これは破壊ではなく、新しいものに生まれ変わらせるための初動だ』という言い方をしていました。もしかしたら、鉛筆に対してやっていることは、機能の死ではなく更新の方が正しいかもしれないです。必ずしも終わるとかということではなくて、生まれ変わらせようとする。トークのタイトルは終わるか続くかみたいな言葉なんですけど、それを問われることで、また新しく続いていくと…。

 

宮谷 安定した場所にただいると、そこに生の輝きはなくて、ある意味では死んでいるような状態になってしまうという意味での『半分死んでいる』とも考えられる。さらにそこから脱した自由な状態になると、それまでの安定した場所にいた自分からは生まれ変わって、前の自分が死んでいる。『半分死んでいる』とは、選択に直面した状況=生きることを表す言葉なのだと私は解釈しています。

 2つがひとつになっている状態を見ると、収まっている形をしているけれども、その境界を探っていくと違和感を感じて不安になる。これはものの常識を更新するという意味で過去作品にも共通しています。さらには、2つの物質が融合することによる効果。人と人の出会いとか、反応とかそういうものへのメッセージもあると見てとれます。彼は、結構真面目に愛を信じている人なので、そういう部分で見られる作品としても成立するのかもしれません。

 

藤村 長い間聴いていただいてありがとうございました。

 

(2019, 6. 16)

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